総合人間学のために
2005年5月17日
中谷英明
東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所

1. 総合人間学の必要性
  20世紀の科学技術は、医学、農業、土木・建築、運輸・通信、生命科学、情報科学等の多数の分野において急速に発達し、飢饉・災害・疫病の克服、人々の安全と豊かな物質的および文化的生活の実現に大きく貢献した。しかしまた同じ科学技術は、2次の世界大戦や国際・国内紛争、全体主義国家等における虐殺や飢饉、「絶対的貧困」とされる貧困層の拡大、環境破壊、新疫病等、重大な問題を、直接、間接の源ともなった。
 これらの問題の多くがいまだ解決に至っていないのは、おおかたが政治の力不足と、その根底にある倫理的怠慢のせいであろう。しかし今日に至るまで人類社会は、つかの間の凡俗な繁栄に浸って、問題解決のための努力を十分してこなかったように見える。このような「統治欠如態」とも呼ぶべき不全状態の放置は、深刻な結果を、現世代だけでなく未来世代にまでも及ぼすことになるのではなかろうか。◆1
 このような状況において重要なことは、グローバル化時代の激変する現代世界を適切に導く、地球運命共同体を自覚した、新しい価値観を確立することである。今日の多様な文明の価値観を形成した新思想の多くは、紀元前1千年紀半ばの数世紀間に現れた。現代世界の危機的状況は、諸文明のこれらの価値観が、その出現以来初めて、全体として行き詰まったことを示すものであろう。従って今こそ、個々の文明伝統の価値観を尊重する、従ってすべての人に受け入れられ政治と倫理の原則として機能する、世界の新しい価値軸を見出す必要がある。今日の価値観が人々の常識、社会の規範、政治の理念として既に2千年以上継続してきたことを思えば、これを行うには数十年を要するかも知れない。しかし肝要なことは、時既に遅しとなる前に、今、一歩を踏み出すことである。
 注意を払うべきは、現代世界の諸変化が幾何級数的に加速している事実である。量子物理学、生命科学、脳神経科学等における科学的知見や、社会、政治、経済の新事象(人口・生産・エネルギー消費の増大、兵器殺傷力の向上、投機的国際金融の簇生、運輸・通信・情報処理技術の飛躍など)は、世界を急速に変容させ、人々の世界認識を一変させつつある。
 したがって新しい価値観は、次の3事実を十分考慮して確立されなければならない。すなわち(1)科学および科学技術の新知見、(2)世界諸地域の現況、(3)諸文明の多様な精神伝統、である。
 今日に至るまで哲学者は、世界と人間に関する可能な限り正確な認識の獲得をその務めとしてきた。その認識が人間社会の進むべき方向を考察する学術の基礎となってきたのである。しかしながら、人々の物質界および精神界の均衡を喪失させる恐れのある、経済、社会、科学、環境分野における近年の変化の加速を考慮するならば、この仕事は諸種の学術に従事する研究者の共同作業として行われることが望ましい。というよりはむしろそれは必須である。
 このゆえに我々は、「総合人間学」と称する新しい人文科学の一領域を提案する。かつて哲学と呼ばれ、今日なおそう呼ばれてよいかも知れないこの学術は、しかしながら、次の点において哲学とは異なる。

1)研究が研究者集団によって共同で成されること。
2)その中核が人文科学の主要領域、とりわけ古典学(ギリシア・ローマ、聖書、イスラム、インド、中国、日本等の古典)の研究者によって構成されること。

具体的には研究は次のように実施されるであろう。

1)人文科学(文献学、哲学、歴史学、社会学、心理学、人類学、動物行動学等)の研究者が互いに対話し、人間に関する知識を深める。
2)同時に彼らは、一方では政治学者、経済学者と、他方では自然科学者と共同して現代世界を概括する知識を獲得する。
3)このようにして、恒常的に解体と再編を継続しそのすべての要素が相互依存している(「複雑系」としての)人間と世界に関する知を、根底的に刷新する可能性を考察する。この考察は、従って、固定的体系の構築を目指すことなく、「不確実さとの対話」を目指し、「処方箋はなく常に作り直される戦略しかない」(エドガー・モラン)ものとなるであろう。
4)とは言え彼らは、その時々のあらゆる偏見を排した一つの合意に、(常に作り直すのであるから相対的なものではあるにせよ)到達するであろう。これが「総合人間学」という新しい学術の基盤をなすのである。安易な普遍主義と怠惰な相対主義とをともに警戒しつつ(フランソワ・ジュリアン)、総合人間学は、たとえ我々が互いにまったく異なる文化に属していようとも、我々の思想の実質的な疎通を成り立たしめ、従って、人類の進路について共同して考察することを可能とするであろう。


2. 準備と進捗状況
(1) 国内において
 この人文科学の新領域創出の実現に向けて、我々は東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)において2004年8月以来、人文、社会、自然科学のすべての主要分野に属する56人の研究者からなる共同研究プロジェクト(うち9人を執行部とする)を実施してきた。  参加研究者は主要研究課題に従って次の5部に分けられる。

 Ⅰ 自然の認識
   1)宇宙と科学的真理
 Ⅱ 世界(共同体)の認識
   2)個人と世界: 伝統体制と民主主義
 Ⅲ 人間の認識
   3)人間の相互理解:言語的および非言語的意思疎通の諸特性
   4)「自然」としての人間の制御: 私生活と公共の場とにおける
   5)人間の豊かで満足できる生活: 「自然的な」生活の研究

   参加研究者のうち古典研究者以外の専門は次の通り。哲学、倫理学、心理学、現代ヨーロッパ文学、政治学、民法、中国・ローマ法制史、経済学、社会学、文化人類学、精神分析学、生理学、神経生物学、動物行動学、環境学、天文物理学、数学、統計学、情報科学、科学史等。

(2) 国際的に
  2004年春にパリの人間科学館に招聘された中谷は総合人間学に関して次の研究者と討論した。
  モーリス・エマール(人間科学館館長)、コレット・カヤ(インド学、碑文文学学士院会員)、ジェラール・フュスマン(インド史、コレージュ・ド・フランス)、カルロ・オッソラ(後期ラテン文学、コレージュ・ド・フランス)、モーリス・ゴドリエ、ジャン=クロード・チボル、ジャン=クロード・ガレ、ドミニク・フルニエ、サルバトレ・ドノフリオ、ジャヤンヌ・コッビ(以上、人類学、社会学、人間科学館)、ピエール・ジュデ・ド・ラコンブ(古典学、人間科学館)、ミシェル・ボー(経済学、パリ第7大学)、ドミニク・レステル(動物行動学、哲学、高等師範学校)、ブライアン・ストック(アウグスティヌス学、トロント大)、アラン・ド・ミジョラ(精神分析医)、ジャン=フランソワ・リシャール(世界銀行、副総裁)
 中谷はフランスの研究者がフランスに研究グループを作り、日本のプロジェクトと共同研究を行うことを願っている。この目的に沿って、AA研と人間科学館の学術協力協定が2005年6月に締結される予定である。◆2
 また上記AA研共同研究プロジェクトは2005年3月、東京において国際シンポジウムを開催した。そのテーマと講演題名・講演者は次の通り。
 第1回総合人間学国際シンポジウム「人にとって豊かな生とは何か」
●人間の条件 − 脳科学の知見から(中田力、新潟大学・統合脳機能研究センター長)
●動物としての人間 −動物行動学の視点から(日高敏隆、総合地球環境学研究所長)
●アフリカを出立して−人類最古の神話群の悠久の旅(Michael WITZE、ハーバード大学教授)
●中国、そして東アジアの「礼樂」文化(戸川芳郎、東方学会理事長)

◆脚注

1 全体的展望については、一つのみを上げるとすれば、ミシェル・ボーの次の書を参照。『大反転する世界 − 地球・人類・資本主義』筆宝康之・吉武立雄訳、藤原書店、2002年(Michel Beaud, Le basculement du monde. De la Terre, des hommes et du capitalisme. La Decouverte, 2000.)

2 予定通り、総合人間学に関する両研究所の学術協力協定(5カ年計画)は2005年6月に締結された。