「総合人間学共同研究プロジェクト」(第2期)について
2008年1月中谷英明
東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所
共同研究プロジェクト「総合人間学の構築」主査
2007年4月から総合人間学共同研究プロジェクト(東京外大AA研)は、第2期の3カ年計画に入ることになった。新しいプロジェクト名称は「総合人間学の構築」である◆1。過去3年間の第1期プロジェクトにおいて新学術領域としての「総合人間学」は、徐々に明らかになってきた。ここに総合人間学をあらためて簡単に位置づけておきたい。
総合人間学は、第一に、人間の知を総合する試みである。第二に、その知の総合によって現在の知のあり方そのものを刷新する試みである。
知の総合の試みは、人類の歴史とともに古い。比較神話学が明らかにするところでは、およそ10万年前にアフリカにいた人類の祖先はすでに神話を持っていたと言う。4万年前ころからユーラシア全域に伝播し始めた神話には世界の創造と終焉が語られるようになる。1万年前ころから歴史時代に入った人類は、急速に神話を複雑化し始め、例えばギリシア、インド、日本に見られる「天岩戸神話」の原型は約4千年前に中央アジアで成立したと推測される。
古代文明の出現とともに、知識の包括的集成や体系化がなされ始めた。メソポタミアでは前4千年紀末からシュメール系楔形文字が使用され始め、前2100年頃には『ウルナンム法典』が編纂される。エジプトには前3千年紀半ばのピラミッド・テキストや前16世紀以降の『死者の書』が残され、また『旧約聖書』は少なくとも前13世紀に遡るユダヤ人の歴史を伝える。インドの『リグ・ヴェーダ』は前1200年頃に編纂され、中国では、司馬遷の『史記』が前17世紀に遡る殷王朝の事跡を伝え、それは甲骨文、考古学的遺物によって検証される。ギリシアではホメロスの叙事詩(前8世紀)やタレス(前6世紀)に始まる文学、哲学書が作られた。知識の集成と伝授を目的とする機関も、プラトンのアカデメイア(前4世紀)や、漢の武帝の五経博士(前2世紀)などが設立される。これと関連して百科事典や叢書も現れ、プリニウスは『博物誌』Naturalis historia(1世紀)を、梁の武帝は700人の筆写生を使い8年をかけて『華林遍略』(720巻・6世紀)を編纂した。総合人間学は、これらの人間の知の総合の営みの一面を継いでいると言える。
ヨーロッパ中世において、ヘブライ,ギリシア,アラビアの諸文献研究によって後進地ヨーロッパの知的水準向上の必要を説き、知の統合(integritas sapientiae)の実現に腐心したR.ベーコン(13世紀)や、こうした機運を人間中心主義(ヒューマニズム)によって実質的に引き継いだルネッサンスの批判精神は、さらに理性への信頼を徹底してスコラ学からの独立を果たした啓蒙思想を生む。F. ベーコン(17世紀)は、古典の復活だけでは不十分であるとして学術の「大革新」(Instauratio Magna)を唱えた。百科全書を編んだディドロも「よい辞書の特質とは思考の常識的あり方を変えることである」(le caractère d'un bon dictionnaire est de changer la façon commune de penser)と言う。知の総合はしばしば知の刷新に至るのである。
総合人間学は、これら古くからの人類の知の営み、すなわち知の総合と刷新に貢献しようとする試みである。
現代世界における知の総合は、過去の知性に比べて格段に広い視野を持つことになるであろう。総合人間学は一つの文明の中に留まることはない。近代学術を創出したヨーロッパ中心観とも無縁である。人間中心主義や科学さえも相対化する。近年における自然科学の発達は、近代は言うまでもなく、四半世紀前の常識を覆す事実を次々に明らかにしている(例えば脳科学、分子生物学、情報科学のように)。総合人間学はこのように加速度的に拡張しつつある科学の新知見を基盤とすることはもちろんであるが、さらに現代科学を超える知見にも扉を閉ざさない。
あらゆる知の刷新を絶え間なく継続するダイナミックスそのものが総合人間学である。これを可能にするのは真の意味での知の総合である。単なる知識の集成は、知識を生み出す知のあり方を変える力に乏しい。総合人間学は、異なる専門家が直接討論し、「人の生にとって最も重要な知識」を交換することによって、各専門の知の枠組みを揺るがせ、新しい枠組みを作ることに努める。異なる知が互いに干渉し合って、常に自らを超え続ける、創造的開放知の恒常的な在り処が総合人間学なのである。
本プロジェクトは総合人間学の構築を遂行するため研究例会を開催するほか、フランスの人間科学館(パリ)と5ヵ年の学術協力協定(2005-2009)を結び、共同して総合人間学国際シンポジウム、ワークショップなどを開催している。また『総合人間学叢書』を刊行し、それらの成果を公刊している。詳細に関しては、総合人間学ホームページhttp://www.classics.jp/GSH/を参照下されば幸いである。
◆脚注総合人間学は、第一に、人間の知を総合する試みである。第二に、その知の総合によって現在の知のあり方そのものを刷新する試みである。
知の総合の試みは、人類の歴史とともに古い。比較神話学が明らかにするところでは、およそ10万年前にアフリカにいた人類の祖先はすでに神話を持っていたと言う。4万年前ころからユーラシア全域に伝播し始めた神話には世界の創造と終焉が語られるようになる。1万年前ころから歴史時代に入った人類は、急速に神話を複雑化し始め、例えばギリシア、インド、日本に見られる「天岩戸神話」の原型は約4千年前に中央アジアで成立したと推測される。
古代文明の出現とともに、知識の包括的集成や体系化がなされ始めた。メソポタミアでは前4千年紀末からシュメール系楔形文字が使用され始め、前2100年頃には『ウルナンム法典』が編纂される。エジプトには前3千年紀半ばのピラミッド・テキストや前16世紀以降の『死者の書』が残され、また『旧約聖書』は少なくとも前13世紀に遡るユダヤ人の歴史を伝える。インドの『リグ・ヴェーダ』は前1200年頃に編纂され、中国では、司馬遷の『史記』が前17世紀に遡る殷王朝の事跡を伝え、それは甲骨文、考古学的遺物によって検証される。ギリシアではホメロスの叙事詩(前8世紀)やタレス(前6世紀)に始まる文学、哲学書が作られた。知識の集成と伝授を目的とする機関も、プラトンのアカデメイア(前4世紀)や、漢の武帝の五経博士(前2世紀)などが設立される。これと関連して百科事典や叢書も現れ、プリニウスは『博物誌』Naturalis historia(1世紀)を、梁の武帝は700人の筆写生を使い8年をかけて『華林遍略』(720巻・6世紀)を編纂した。総合人間学は、これらの人間の知の総合の営みの一面を継いでいると言える。
ヨーロッパ中世において、ヘブライ,ギリシア,アラビアの諸文献研究によって後進地ヨーロッパの知的水準向上の必要を説き、知の統合(integritas sapientiae)の実現に腐心したR.ベーコン(13世紀)や、こうした機運を人間中心主義(ヒューマニズム)によって実質的に引き継いだルネッサンスの批判精神は、さらに理性への信頼を徹底してスコラ学からの独立を果たした啓蒙思想を生む。F. ベーコン(17世紀)は、古典の復活だけでは不十分であるとして学術の「大革新」(Instauratio Magna)を唱えた。百科全書を編んだディドロも「よい辞書の特質とは思考の常識的あり方を変えることである」(le caractère d'un bon dictionnaire est de changer la façon commune de penser)と言う。知の総合はしばしば知の刷新に至るのである。
総合人間学は、これら古くからの人類の知の営み、すなわち知の総合と刷新に貢献しようとする試みである。
現代世界における知の総合は、過去の知性に比べて格段に広い視野を持つことになるであろう。総合人間学は一つの文明の中に留まることはない。近代学術を創出したヨーロッパ中心観とも無縁である。人間中心主義や科学さえも相対化する。近年における自然科学の発達は、近代は言うまでもなく、四半世紀前の常識を覆す事実を次々に明らかにしている(例えば脳科学、分子生物学、情報科学のように)。総合人間学はこのように加速度的に拡張しつつある科学の新知見を基盤とすることはもちろんであるが、さらに現代科学を超える知見にも扉を閉ざさない。
あらゆる知の刷新を絶え間なく継続するダイナミックスそのものが総合人間学である。これを可能にするのは真の意味での知の総合である。単なる知識の集成は、知識を生み出す知のあり方を変える力に乏しい。総合人間学は、異なる専門家が直接討論し、「人の生にとって最も重要な知識」を交換することによって、各専門の知の枠組みを揺るがせ、新しい枠組みを作ることに努める。異なる知が互いに干渉し合って、常に自らを超え続ける、創造的開放知の恒常的な在り処が総合人間学なのである。
本プロジェクトは総合人間学の構築を遂行するため研究例会を開催するほか、フランスの人間科学館(パリ)と5ヵ年の学術協力協定(2005-2009)を結び、共同して総合人間学国際シンポジウム、ワークショップなどを開催している。また『総合人間学叢書』を刊行し、それらの成果を公刊している。詳細に関しては、総合人間学ホームページhttp://www.classics.jp/GSH/を参照下されば幸いである。
1 共同研究プロジェクトメンバーは以下の38名である。中谷英明(主査)、峰岸真琴(副査)、荒川慎太郎、芝野耕司、床呂郁哉、真島一郎、宮崎恒二(以上AA研所内メンバー)、池本幸生、石堂常世、市川裕、井原康夫、WITZEL, Michael、内堀基光、内山勝利、大津透、丘山新、小川正廣、柿木隆介、笠井清登、亀山郁夫、河井徳治、黒田彰、後藤敏文、新宮一成、杉下守弘、杉本良男、中島隆博、中島秀人、中田力、長野泰彦、納富信留、日高敏隆、寳珠山稔、松井健、松尾剛次、丸山徹、水野善文。