第4回総合人間学国際シンポジウム
「開放知としての科学と宗教」
2007年12月10日.11日 日本財団大会議室(溜池山王)

世界観としての科学と宗教は、
人間の脳のどのようなメカニズムから生まれ、
動物や原人の時代や、日本,中国,インド,イスラームの
古典時代には、どのようなものだったのか。
それは、自分の立場を客観的に見ることができ、
新しい事態に柔軟に対応することができ、
創造的によりよい世界を構想することができる、
そういう開かれた知性であり得るのであろうか。

17世紀、科学の確立に貢献したガリレオやデカルトは、宗教権威による厳しい検閲や弾圧を意識しつつ、真理の探究や研究の公表を行なわなければならなかった。

しかしほどなく科学は宗教に対する反撃を開始する。啓蒙思想は「宗教教義といえども理性に反したものであってはならない」と主張した。フランス革命を経て19世紀になると宗教は時に知性の開放を妨げる陋習とまでされ、ビクトル・ユゴーは「どの村にも灯りをともす教師と、灯りを消してゆく聖職者がいる」と記すこととなった。

現代の先進諸国では信仰は科学によって吟味され、合格して初めて社会的に許容されるという事態に近くなっている。その最も先鋭的な論調は「信仰の毒」を説くドーキンスの『神は妄想である』(The God Delusion, 2006)であろうか。

しかし実際には、両者には一つの共通点が認められる。

古代ギリシアには「唯一の真理」という概念はなく、言説は繰り返し検証に付された。これが今日の科学のもととなった考え方であり、科学理論は時々刻々に検証を受けて書き改められている。一方、古来宗教聖典も次々に時代に即した新しい解釈が付され、新しい聖典が創作されてきた。両者に共通するのは、この恒常的な自己刷新の力である。

歴史を顧みれば宗教を口実に虐殺が繰り返され(ナチスによるホロコースト、インド独立の際の騒乱・・・)、その悲劇は今もなお已んでいない。宗教が現代世界にふさわしい信仰となることが今ほど望まれるときはない。他方科学もその巨大な力の使い道を誤らないよう、十分すぎるほどの注意が必要であろう。

今回のシンポジウムでは、世界観としての科学と宗教が果たした役割を生物史と人類史の中に確認し、またその脳内メカニズムを考慮に入れつつ、常に自らを更新する柔軟で創造的な開放知としての科学と宗教の未来をともに考える。