中国古典図像の思想史研究

葛兆光

 

 「図」と「書」は現在では合わせて一つの言葉であるし、「左図右史」とはかつて古代中国の歴史記載に関する伝説であるけれど、しかし、「図」についての研究はずっと「書」についての研究に及ばなかった、特に中国思想史の研究領域においては。思想史の研究者はあるいは「言を心の声と為す」という習慣にとらわれ、ただ文字文献だけが真実にして正確に思想を表明していると考え、図像分析は穿鑿の嫌いを免れないとしたのか、あるいは文字文献がすでに充分に思想史研究者たちにあれこれと採集されていると考え、それで図像文献に全く関心をもたなかったのか。ゆえに、今でも図像文献を用いて思想史を研究しようという試みは依然として非常に少なく、それらは決して直接に思想を表現する資料ではないので、思想史研究の視野の外に置いておいてかまわないとしているかのようである。             

 当然ながら、ある領域では、研究者はすでに図像に注意している。しかし、文字文献が乏しく考古的な発掘や伝えられた文物に頼らざるをえない早期の歴史の研究を除いて、ある画像はやはりただ「挿し絵」とされるにすぎない、例えば各種の「図説」といった歴史と文化の著作では、鄭振鐸『挿図本中国文学史』と『中国歴史参考図集』の出版以降、図像は既に多く用いられているが、しかし図像はただ文字による叙述の付け足しであって、その書物の中での存在は文字文献の証拠とするために過ぎないようであった。ある図像は必要以上に文字に還元され、研究者はその叙述内容に注意して、かえって画像の形式的意味が全く閑却され、そこで図像は還元して文献となってしまったのだ、例えば近年各国の学者の『点石斎画報』に対する優れた研究も、しかしその内容は、西風東漸とか、社会風俗とか、ただ社会史を叙述するうえでの資料として使用されるだけなのだ。当然だが、巫鴻の武梁祠の漢の図像石についての研究はかなり深く、そのうち例えば図像石のある祠堂空間が象徴する宇宙等々についての多くの論述は、すでに深層の観念世界に及んでいるが、問題は、漢の画像石は長期に渡ってずっと芸術史の領域と見なされていたので、それでこのような論述も人々にその他の図像に込められた思想史的内容に対する重視を引き起こすことがなかったのである。同様に、最近の杜正勝の『番社采風図』についての研究もかなり精彩のあるもので、特に「風俗画は踏襲されやすく、遂には「定型」となる、しかし本当の定型はまた生活全般の縮図とすることができ、典範としての意義をもっている」と指摘しているが、このような定型が確かに表していることは「日用していながら気づかない」伝統的観念である、しかし、惜しいことに人々はあらゆる図像のなかで最も容易に「定型」に陥りやすくしかもある種の思想史の「象徴」である構図・変形・位置・彩色などをさらに一歩進んで討論することはなかった。図像学の研究の角度からみると、構図・変形・位置・彩色などには確かに図像と文字文献の差異があるところであり、思想史研究の角度からみれば、これらの方面の図像学の研究こそが文献資料を補充することができる部分なのである。なぜなら、図像もまた歴史の中の人々が創造したものである以上、それならそれは必然的にある種の意識的な選択・設計や構想が含まれているのであり、しかも意識的な選択・設計と構想の中には歴史と伝統が積み重なっているであって、それは主題の偏愛について・色彩の選択について・形象の想像について・図案の設計についてさらに比例の調節について、特に図像を模写するときの意識的な変形に、さらに想像が混じり入っているにしても、それらの無意識あるいは随意的ともみえる想像の背後には、確かに歴史・価値と観念が隠されているからで、そういうわけでここには思想史の研究を必要とする内容があるのである。

 「図、経なり。書、緯なり。一経一緯、相い錯りて文を成す」、宋代の鄭樵はかつて「古の学者学を為すは要有り、図を左に置き、書を右に置き、象を図に索め、理を書に索む」と述べた。もし本当に古代人が理解するように、象の中に理が含まれ、理は象によって出るのであれば、それなら、我々はただ文字文献の中から思想史を探し出すことができるだけではなく、あるいは図像資料から思想史を探り出すこともできるのではないだろうか。西洋において、図像学(iconography)は十九世紀に考古学から分離してきて、宗教芸術の中の図案・象徴・符号の意味を研究するようになってから、しだいに民族・宗教・観念・意識形態の研究領域に進んでいった、しかし、この領域は中国の研究ではまだ充分な発掘がなされていない。実際には、中国の古代文献中の図像はかなり豊富であり、それはまた本当にかなり豊かな思想史的内容を含んでいるのだが、ただ思想史研究の中での図像研究は、なおいささか方法上の模索が必要であり、以下試みに幾つかの具体的な例を挙げてみようと思う。

     

 古代中国の祀堂祭祀や宗教儀式において壁に掛けられた図像が常に用いられたが、これらの図像の空間的配置はずっと変化なくまた固定していたかのようであった、仮に、絵画が芸術だとすれば、その配置において追求されたのは変化や新奇であったにちがいない、しかし、これら儀式において使用された図像はずっとまるで苦労して前例に従ったかのように全く新味を欠いていて、四方から中心に向かって対称に配列するという定型なのだが、このような定型を改変することはかえってその意義を喪失することになるであろう。そうしてこのように反復して現れる「定型」は、一種の象徴となったのであり、それはある観念に対する自覚のない永続的な親近感からきている。なぜなら、これらの空間的配置の背後には、実は非常に古い歴史と伝統があるのであり、簡単に言えば、繰り返される変化のない定型は深く根をはった観念を象徴しているのである。

 例えば、古代中国の仏教と道教は儀式にあって神祇的世界を想像するのに掛けられた画軸があり、これらの図像は大規模な宗教儀式において使用されたのであるが、通常図像は宗教建築に倣って三面の壁に置き、真ん中正面は最高位の主神、両側は各種の補助的性格の神仙あるいは菩薩で、あわせて宗教が設定する「聖域」を象徴させ、宗教的理想の境地として信仰者の崇拝・憧れや模倣を引き起こすのである、それゆえこれらの図像は思想史の文献とするとき、常にそれを宗教儀式のなかにおき、その象徴的意味を考察することが求められる。たとえば20世紀初めフランスのペリオ(Paul Pelliot)がパリに持ち帰ったものに、明の景泰五年銘記『水陸斎図』があるが、これこそは仏教の水陸大会で使用されたもので、それは信仰者に天上界の情景を講説するだけではなく、フランスの学者の研究によると、このまるで金字塔(pyramid)のような空間構造には「中心に向かって多くの星が北斗星に拱するようにわき起こる」という意味が備わっており、それ自体が「中国人の世界観と自然観、および万物に対する見方」を表しているという。さらにワシントン博物館に存する南宋の『道教三官図』は道教の斎?儀式において用いられた「幕」【図一】かもしれない、宋人の『霊宝領教済度金書』巻一の説によれば、室内で斎儀を行うには、北・東・西の三面の壁に図像を描くことが求められ、斎壇前には幕が設けられなければならない、普通の建斎では、東西の二つの幕が立てねばならないし、もし厳かな黄録斎であれば、東西には、「左は玄師、次は天師、次は監壇大法師、右は五帝、次は三官、次は三師」と六幕を建てねばならず、現代の学者の研究によれば、これら壇場の帷幕とした神祇の図像は、また信仰者が神界を想像するよりどころであったし、その空間設計と宗教儀式の調和は、かなり深い意味を持っていたという。これらの絵画自体の内容とそれが掛けられた空間的位置は、その間に身を置いた信仰者が自らその境遇を経験する「境」を構成し、さらに正面の主神の画像・位牌あるいは塑像、三面の神奇な画像に頭上の夜の星空によって、想像の「聖域」あるいは「天界」を構成し、それは歴史伝統的な遺物・神奇で奇怪な故事・一般人が思いもよらない内容と絢爛たるきらびやかな色彩によって、それ自体が想像の世界を構成している、そしてこの擬似的多次元空間は、現代の円形スクリーンが本当の情景に似せるのと同様であり、さらに宗教音楽が加わり、本来は敬虔な信仰をもった人たちを想定された宗教的境界に連れてゆくのである。

 「鼎を鋳て物に像す」と、図像によって虚構世界を組み立てて現実世界に似せるという歴史は非常に早く、人々もまたまた早くから図像が宗教的想像を啓発することに気付いており、また早くからこのような空間設計の象徴性を理解していた。『楚辞・天問』が最も早い解釈の一つということについては、王逸が『(楚辞)章句』で、屈原が放逐された後「楚に先王の廟及び公卿の祀堂有り、天地山川神霊の、g?譎詭たる、及び古聖賢怪物行事を図画するを見る、周流罷倦して、其の下に休息し、仰ぎて図画を見、因りて其の壁に書し、呵して以て之を問う」といっている。また『山海経』は古人のある説によると、四面に掛けて、四方を象徴させ地理を解説する一種の図画であり、このため朱熹は「往々にして是れ漢家宮室中に画く所の者を記録し、南に向かい北に向かいと説う、其の画本為るを知る可きなり」と述べている。恐らくは秦漢以来、宮室あるいは墓室の四面の壁とか、四方に選択して掛けられた幾つかの絵画によって四方を象徴し、宇宙天地を模擬し、そうして見る者の別世界の想像に供するという伝統はすでに深かったのであろう、ゆえに道教が成立するとすぐにこの方式を援用して彼ら自身が設定した理想世界を象徴したのである。『太平経』のなかには『乗雲駕龍図』『東壁図』と『西壁図』に関する説明があるが、王明先生が『太平経』を整理して『太平経合校』を作った当時、中国科学院考古研究所の陸式薫に頼んでこの三図も作ってもらい、『太平経合校』の後に附した。

 後のこれらの画幕・画軸や壁画は、みな初期道教の図像絵画の伝統の延長である。後世の道教斎・?儀式において、常に『九歌』と同じ様な、神奇な雰囲気と想像の世界が構成されたが、これは初期道教の簡略素朴な静室のようではない、後世の道教の活動には、荘厳粛穆な祈祷や誦経、素晴らしくまた心地よい歩虚音楽、変幻を極める神秘な歩?踏斗(訳者注 儀式における独特の歩き方)がなければならなかったほか、さらに人々に仙界への想像をひきおこさせるに足る図像がなければならなかった、一説によると、焼香のときには「常に炉の左に金童 右に玉女存して香炉に侍」らねばならなかっし、呈章朝真のときには「五方の気及び功曹・死者・吏兵存して、左右に分位し、森然として相臨み左右前後に対待するが如」くするようにしなければならなかった、道教では人々を戒めて、神祇を想像するときには「皆な目想し彷彿として形儀を見るが若くにして、空静寥然として音響無きを以て趨拝して退く可からざるなり」という。しかし、信仰が精神的な想像だけにたよってこのような境界に到達することができないときには、音楽と図像による啓示と誘導しかなかった、『要修科儀戒律鈔』巻十七で斎科を叙述したとき、「地に錦の席を鋪し、前に巨屏を立」てることを求め、そして巨屏は「左右竜虎将軍・侍従官将・兵二千許人を両面に立て、備衛有るが若くし、復た金甲将軍二十六人、神王十人、次に竜虎二君有るの外、班列粛如たる」が描かれていた。もし?城永楽宮三清殿で、各壁面の諸天の衆仙が取り囲んで集まり一緒になって三清へ朝拝に赴くという求心的な図像を見てみれば、三清の崇高さが引き立ち、信仰者の三清の境界に対するあこがれを引き起こすのではないだろうか。【図二】

 宗教史の研究について言えば、図像と儀式の間の組み合わせの関係についての理解はかなり重要であるが、しかし、思想史研究について言えば、さらに継続して追求すべきは、信仰者が図像を用いず静室で自覚的に思索し神を思うことができたことから、信仰者が図像を求めて神祇世界に対する幻想を導くようになった、この変化の背後には信仰世界のどんな変化が隠されているかということである。当然ながら、さらに追求すべきことは、このような四周をぐるりと土壁でとざし、中央を取り囲むという空間配置がすでに定型となった宗教絵画を通して、我々はそれが象徴する「聖域」「天界」或いは「三清境」の思想的意味をいかに理解すべきなのかということである。つまり古代は圜丘・霊台・明堂で、また「玉j」「蒼璧」「式」で天地宇宙を模擬して、通天の意味を得たのと同じように、道教及び後来の仏教が、儀式の場を配置するとき、どうして方位・尺寸・彩色・設備さらには陳列する品々までもが古代中国人がはっきりと認めていた宇宙天地四方星座と対応させなければならなかったのだろうか。「聖域」についての宗教絵画にあって、なぜまた古人の観念の世界である宇宙空間を模擬しなければならないのか、なぜ神の世界も中心・四方・五行・上下が対応し、中央と東西両側・四方との対称と調和の関係を形成しなければならないのか。たとえば『度人経』巻首の三清図、それは『道蔵』全体の最初に置かれているが【図三】、その象徴する意味はもちろんかなり重要で、しかもそれはある等級序列によって位置を割り振られているのである、元始天尊・二十八宿・五方斗宿・四天三十二天・太陽太陰の空間的位置は、つまりこのような宇宙の空間関係・位置の等級秩序に関するものに照らして割り当てられている、道教の神仙の絵画を見た人は恐らく、この種の絵画の空間設計は千篇一律で、まったく杓子定規であると、感じるであろうが、私は、ちょうどそれが繰り返し表されることによってこそ、この種の叙述の背後には一種の根深い習慣と観念があることを説明でき、ちょうどこれらの神界を描写していると見られる絵画の中に、我々は古代中国人がどのように図像によって「中心」と「四方」の空間配置、中心の地位を四周より高くするという価値観念を解釈しているか、どのように図像によって古代中国の伝統的な「一」の観念・「五行」の観念を演繹していたか、さらには古代中国の「天は円に地は方(四角)」という空間感覚がまたどのように宗教的想像世界に構造され、あわせて宗教の図像に中に浸透しているかを見いだすことができると思う。

 

 

 図像は模擬(simulation)によって定位を表現しているだけでなく、位置(position)で評価を伝達し、比例(proportion)で観念を暗示し、さらに変異(variation)で想像を突出させている。古代図像において意識的な位置配列・大小の変化があるのは大変よく見られることで、例えば一族の祠堂の人物図は昭穆の順に配列され、すべて正面端座像として描かれるというのは、秩序の象徴(symbol of system)であり、山水画の人物の小ささもまた、すでに芸術史家に指摘されているようにある種の自然にとけ込む或いは静謐を追求するという定位が潜んでいるのであり、古代の帝王図が常に帝王の身体をことのほか背高く大きく描き侍者を相対的に小さく描くのは、地位と権力に対する仰視を表現しているのであり、さらに明清時代の版画で理想的女性を削り取られたようななで肩でか細いという様子に想像したのは、その時代の男性中心の強権的地位と自信を欠く性別意識とを幾ばくかは反映していた。特に興味深いこととして、古代の中国が地図を製作するなかで中央と周辺・大と小・上と下で当時の民族・国家と文明についての観念を表現し、またある焦慮と不安を表現していることに私は注意している、そして『職貢図』『王会図』或いは『朝貢図』では、異国の人間を「我が族類に非ず」というように描くだけでなく、さらに多かれ少なかれ変形があるが、まさにこのような変形のなかに、天朝大国という自我意識が表現されているのである。

 思想史研究者は既に指摘しているが、古代中国思想が近代中国思想へと変転してゆくある重要な側面とは、中国が「天朝」のイメージから出てきて、「万国」並立の時代に入ってゆき、それによって自身についての理解が「天下」から「中国」に到達したことだ、しかし、古代中国のこのような自身の文明が永久不変に四裔よりも高いという自信が一旦失われてしまうと、伝統的知識・思想と信仰世界との間に亀裂さらには崩壊が現れてくるに違いない。思想史のなかでこの論断を実証できる文献はとても多い、しかし最も直接的で最も具体的な形をもった表現は先に指摘したあの二種の図像、古代中国人が描いた「世界地図」である『輿地図』『禹迹図』『広域図』などの類で、それは漢族が存在するその空間を中央に置きさらに「天下」の大半を占拠しているのに異域は非常に小さくまた四周に置いていて、我々はそれが依然として古代の中国の天朝と四夷についての考え方を表現していることがわかる、しかし人々が近代西洋で製図された世界地図を受け入れることを迫られたとき、伝統的な天下についての観念が既に崩壊してしまったことを知ることができるのである、この点については、私は既に古代の地図に関する論文において検討したことがある。しかし『職貢図』も同じく世界に対するひとつの理解であり、伝説であるが梁元帝が『職貢図』を描いて以来、四庫全書に採録されている『皇清職貢図』まで、歴代宮廷はみな異域が使者を派遣して朝貢してきたことをテーマとしてこのような図像を描いてきた【図四】、非常に長い時間に渡って、このような原本は天朝上国のなかで「胡越一家・要荒種落、共に王の職に来る」を表現するため、また異民族を「其の状貌は各おの同じからず、然れども皆な野怪寝陋にして、華人の気韵無し」と見なした図像として、ずっと「万国」「異族」「番鬼」、さらには「洋人」の図像の手本とされ、写実的であると想像的であるにかかわらず、それはすべて「異域のイメージ」にかかわるものを担っていたのだ。

 このような想像の図像のなかで、中国は唯一の文明大国という視点で四夷を、半ば卑しみ、半ばは憐れんで、俯瞰していた。南宋の劉克荘は李伯時が描いた『十国図』を説明して、たとえある外邦が万里に離れていても、彼が描いているのは「虚幻恍惚として意いて之を為す者に非らず」と述べ、また少なくとも日本・日南とペルシャについては実録であると言うが、そうであったとしても、彼は異民族を野蛮人であると想像し、「其の王或いは蓬首にて地に席し、或いは戎服して踞坐し、或いは剪髪して骭を露わし、或いは髻?して跣行し、或いは群下と膝を接して飲む、或いは瞑目して酣酔し、鄙野乞索の態を曲尽す」といっており、当時文明的であった漢族国家はすでに野蛮とされる女真とその後のモンゴルに圧迫されて半壁の江山を残すのみであったけれども、このような文化的な優越感は終始消えることなどなく、かえって強敵が周囲から窺っているなかでより突出してきた【図五】。当然、これは決して古代中国のみの一方的な事実ではなく、同じように、西洋の図像資料から最も早く接触した時代の西洋人にも中国に対して多少のイメージをもっていたことが察知される。通常、人々はみな図像によってある事物や現象を伝えるということは、文字よりもより正確だと考えている、なぜなら文字は読みそして理解するとき、大変簡単に語彙の意味の間から想像が混じり込んでくるからで、ある文の描写が筆者が書いて読者の目に達するとき、大変直接的であるように思えるが、実は総てが必ずしもそうとは言えない、古代のいわゆる「郢書燕説」というのは文の「誤読」のことである。しかし、写実的な図像もまた想像と偏見の侵入を避けることは難しいように思われる。例を一つあげると、写生を得意とする西洋人はその透視画法を用いて、中国の建築・風景や人物を描いている、本来理屈からいうと大体正確であるはずだが、例えば1665年Johan Nieuhofの風景画は、パリでもともとの素描底本が発見された、底本はどうやら実地の写生作品であった。しかし、ちょうどもともとの素描底本が発見されたことは、これが実景であったことを説明しているとともに、また写生から作画に至るときに想像が混じり込んだことを説明することにもなった【図六】、なぜなら、その後印刷出版された図のなかの、椰子の木々や城楼の草木は、後で西洋の習慣的な想像によって加えられていったからだ、だから、この絵の中は半分は本当で半分は嘘があるのである。文化交流と相互理解の歴史ではいつもこのようなのであり、「誤読」は「想像」を伴い、「推測」は「観察」と繋がっている、例えば順治皇帝とされる画像は、どうみてもまるで西洋人が西洋の宮殿のなかにいるようだ、あのような彫刻が精密で、模様は複雑で重なり、壁にはきらびやかなタペストリーがいっぱいに懸かっている宮殿は、中国の皇居のようではなく、西洋の貴族の豪邸により似ているとされる、傍らの子犬に至っては、あるいは想像によって加えられたのだろう、中国の皇帝は概ね自分で牧羊犬を飼いなどしなかっただろうから、さらに西洋人が描いた乾隆時代の宮廷宴飲図にも、非常に多くの西洋の習慣的想像がその中に混じっている【図七(1)(2)】、同じく、別の清初の宮廷について絵画には、皇帝が手に地球儀をもち、階上の大勢の軍人は刀をとり槍をつき、周りを護衛していて、階下に四人の犯人がいて、その中の首枷をはめられている一人は地に倒れているのが見える、この構図は完全に西洋画の構造様式で、宮廷・帝王と尋問を一緒にするというのは、だいたいは西洋の想像でしかあるまい。また心を驚かせ動転させる絵のなかの、あの手に長い矛をもち背に弓を掛け、手に首をさげている人物がどこの人であるか、推測のつく人がいるだろうか。ひょっとするとインディアンやアフリカ人と推量するかもしれないが、中国人のなかで恐らくこれが早い時期の台湾人の姿態であると思いつく人はほとんどいないのではないだろうか【図八】。もしこれを十八世紀前半の『番社采風図』の記載と較べれば、『番社采風図』の作者の目にうつったあのように和気あいあいとした様相と、西洋人の目にうつったこのような殺伐とした強奪の様子とでは、同じ場所の生活の情景ではないかのようだ。当然ながら、これは1671年に出版された絵画で、『番社采風図』の時代に較べればやや早い、しかし、たとえ数十年前倒ししたとしても、その時の台湾人が首狩りをするほど野蛮であったかは言わずもがな、服飾についていっても、台湾人があの時代、首に掛けていたのは相変わらずこのような首飾りであり、頭にかぶっていたのはやはりこのような羽毛で作られた冠だったのだろうか。それでは、これは結局のところ実景なのだろうか、それとも異類についての想像なのであろうか。

 古代の中国は四夷に対する蔑視に溢れていたようであり、さらに四裔について描写している文章と図像にあっては、すべて天朝大国の驕傲と野蛮に対する憐憫とが含まれており、そこで、想像さらには幻想によって異域の人をずっと「野怪寝陋にして、華人の気韵無し」と考えていたのである。しかし、早く十三から十五世紀ごろのヨーロッパも、東方に対する好奇に満ちていたようで、東方の遊歴あるいは東方を想像した多くの書物のなかには、半ば真実半ば嘘の文章だけでなく、さらに幻想と推測を混じえた図像があったのである。1478年に出版されたAusburgの『自然の書』(Buch der Natur)と1609年刻された中国の『三才図絵』に収められている二幅の異域の人についての図像【図九(1)(2)】を見てみよう、この二種類の異なった図像と相通じる心情とは、まず最初に気付かされることだが、図像のなかの「異邦のイメージ」についてである。初期の西洋人の東方、特に中国に対する想像は、ちょうど古代の中国の『職貢図』『王会図』あるいは『朝貢図』の外国人についてのイメージと一対となっていて、これらの図像のなから、我々はちょうどそれぞれの「別種の文明」に対して想定されたものが、自身の「他者の様相」に対する描写にどのように影響しているのかを透視することができるのである。

 

 想像に従って図像を製作すると、当然偏見が混じり込んだ想像によって生み出された変形がある、図像と図像の間の臨模・複製と伝写のなかでも、また差異が生まれてくるであろう、技術的な原因のほか、さらに別の原因、例えば伝統からくる習慣・想像さらには偏見などなどの混入である。そこで、思想史では図像の翻刻・臨模・転写・踏襲の間に発生する差異を、ひとつの時間経過の過程と見なすことができるが、これからあれへという変異に観念世界の内容が混じり入ったことにより、そのことによって、このような異なった図像の間には思想史による研究を必要とする問題が存在することになるのである。

 以下のことは大変興味深い事実です。私はベルギーのルーバンの歴史博物館を参観していたとき、十五世紀の油絵を見つけた、キャンバスに描かれているのは人間の骨格がシャベルをついていて、背後にはそれを引き立てている風景が描かれていた、説明によると、風景を描くことは科学的挿し絵と芸術的絵画がまだ未分化であったときにはよくあったことだそうで、このころ人間が風景と人体・機械を一緒に描くことは、当時の世界地図があいたところにいつも奇怪な獣や魚を描いていたのと同様のことであったようだ。この絵はのちオランダで出版された人体構造を描いた書籍に、人体の骨格構造(Skeleton)の描写として用いられ、そしてその本は宣教師の羅雅谷(1592ー1638)等によって中国語に翻訳、『人身図説』と題され、この図もまたその通りに翻刻されて、『周身正面骨図』と呼ばれた。ベルギーの鍾鳴旦(Nicolas Standaert)教授が私に話してくれたところによると、この本は北京大学図書館にあり、彼が子細に調査したところ、翻刻された図画はこれだけに止まらず、例えばこの正面からのもののほか、さらに背面の骨格図『周身背面骨図』があり、別に人体を描いた図(Human body)が、また中国版『人身図説』として描かれて、『正面全身之図』と呼ばれている、ただこれらの絵はみな、子丑寅卯と言った類の中国の方位を示す文字が加えられていた【図十】。当然ながら、図像の翻刻はよくあることで、それほど正確でなくとも、大体は違いがなく、たとえ少しばかりの文字を加えたところで、また「形式的意味」にしかすぎない、中国人が五臓を五行に配当したというのは古い習慣であり、しかも五行と天干地支との組み合わせも由来が非常に古いので、翻刻のときに蛇足を加えるのは当然のことなのだ。興味深いのは、鍾鳴旦教授は清の羅聘がつくった『鬼趣図』を発見したが、その中に描かれていた鬼(幽霊)が意外にも西洋人が描いたこれらの骨格図像を援用していたことである、これは大変興味深い流用で、科学的な挿し絵を芸術的な絵画に変え、人体骨格を死後の幽霊に変えて、読者と鑑賞者の文化的想像に混ぜ込んだのだ、ちょうどこの常軌を逸し思いもよらない変化の中に、事細かに考えてみるべき意味があるのである。

 類似した状況はさらに多くあって、例えば中国の泉州と日本の長崎には観音を聖母と思いなしたり、或いは意識的に聖母を観音に描いたりしたが、宗教迫害を免れるということ以外に、観音と聖母の関連には、宗教信仰についての理解と解釈の意味を分析できるのではないか、明の蔡汝賢の『東夷図像』中の「天竺図」は、天竺(実際はインドのゴアあたり)の人が当時カトリックの聖母を信仰するのを想像して観音を拝む様子に描いている、ただ観音は胸に抱いた赤子が加えられているが、このような想像の変異は結局のところどういう意味があるのだろうか。もうひとつ、さらにある興味深い変異が道教の資料に現れている、『道蔵』のなかに『五岳真形図』があるが、李約瑟の分析によると、この六朝の道教文献は中国で最も早い地図のひとつとするべきであるとする【図十一】、現存のいわゆる「古本真形図」の序文は「五岳の真形は、山水の像なり、盤曲回転し、陵阜の形勢、高下参差し、長短巻舒たり」と述べ、その中ではやはり上を南に下を北と表示し、さらに多くのところで「これより上る」という標識があり、最初は採薬や尋仙の地図であったに違いないと想像できるので、それでどこに「紫石芝」「仙草」があるかについて、どこからどこまでは「若干里」「若干丈」などの説明があるのは、ちょうど文中で「黒は山形、赤は水源、黄の点は洞窟口なり、画くこと小なれば則ち丘陵、微や画くこと大なれば則ち隴岫 壮なり。葛洪 高下は形に随い、長短 像を取ると謂う」と言っているのと同じなのだ。問題は、このような本来地形と地理を模写した地図が、のち、道教の言語的脈絡の伝写と解釈の中で、しだいに道教の符図と変わってしまい、そのなかで山水を模擬した意味は、神秘の意味に変化し、本来入山者を手引きし、道順を指し示すという知識的な意図は段々と失われてゆき、突出してきたのは神霊の加護の力量に頼るという宗教的意図であった。特に注目に値するのは、このような転換は、「文字」を介して移り変わっていったことであり、図中で「波流は奮筆に似、鋒芒は嶺鍔に暢び、雲林は玄黄にして、書字の状の如き有り」と述べているが、このような符図は神秘的心理が長く続いてゆくという作用のもと、しだいにある種の神秘的な文字と見なされるようになり、「是を以て天真道君は、下規矩を観、趨向を擬縦し、字の韻の如きに因りて形に随いて山に名づく」といい、地図は変形して文となり、文は変形して神符となった、その過程の思想史的意味は何なのだろう。私がずっと考えつづけているのは、漢字の視覚的印象・連想や象徴的意味は、思想の符号となる時、必ずや古代の中国思想の定位に対して特殊な作用をもったに違いなく、古代の中国人に言葉と物・言語の秩序と宇宙の秩序についての理解を、西洋とは異なりインドとも異ならせたということである、それは漢民族だけでなく、かつて漢字を用いてきた東アジアのそれぞれの民族すべてにかなり特別な影響を与えたのではないだろうか。『五岳真形図』は地理図像を識別できない文字に変え、またこのような識別できない文字を道君に賜った神秘の符と想像し、さらにそれを「竜篆」と称するようになる変異の過程には、思想史研究者の興味を引く所があるのではないだろうか。

 

 古代の中国思想史の研究は近来すでに大変多くの新しい進展があった、たとえば考古学的発見による新資料は我々に思想史の連続性についてさらに新しい理解をもたせたし、たとえば西洋の言葉と中国思想の間の差異の再検討は我々にさらに思想の歴史をさらに適切に叙述させることができたし、たとえば視点を下ろして一般の思想世界にまで注意がおもむくことで思想史にさらに広闊な空間を持たせたし、たとえば思想の知識史の背景をよく見ることで我々に多くの思想に対して新しい解釈を得させた、などなど。

 しかし、私が思うに、図像に対する研究も思想史に新しい視野を加えることができるであろう、なぜなら古代の中国の残存資料のなかで、図像文献は決して少なくないし、さらにすでに大変多くの図像資料が我々に思想史の新しい問題を提出してきているのだから、たとえば弾薬庫の楚帛書十二神像の象徴性はなんだろうか。たとえば地図はなぜ上を南に下を北とすることから下を南に上を北とする変化が生まれたのか。たとえば伝統的肖像画の様式はどうしていつも正面端座で描かれるのか、さらに多くの人物の場合昭穆男女で対称にされるのか。たとえば伝統的な推命図書はどうして円形に描かれるのか、それと暦法や五行九宮の関係はどのような観念を表明しているのか。このような例はとても多く、ここであるいは古代中国の非常に多くの普遍的で隠された思想を解釈することができるかもしれない。ただ気をつけなければならないことは、図像の思想史研究において、どのように過度の説明を防止し、その解釈の範囲を制限するかということで、さらに真剣な討論、その上いくらかの慎重さをもった、を行う必要がある。

 

2001年3月 北京藍旗営にて脱稿

 

【附図】

図一;南宋『道教三官図』(内一)ワシントン博物館蔵

図二;山西?城永楽宮壁画(部分)

図三;『正統道蔵』所収『度人経』巻首図

図四;梁元帝『貢職図』(部分)

図五;南宋黄裳『地理図』

図六;Johan Nieuhof画 中国都市風景

図七;(1)西洋人画 伝順治皇帝像

   (2)西洋人画 乾隆朝宮廷宴飲図

図八;西洋人画 初期台湾人図像

図九;(1)『自然の書』(Buch der Natur)と(2)『三才図会』の異域の図像

図十;『人身図説』の挿し絵(内一)

図十一;『道蔵』所収『古本五岳真形図』(部分)及び『玄覧人鳥山経図』

 

 

【注】

1・この種の形式の図書は既にかなり流行していて、鄭振鐸の本のほか、近年中国大陸でも多くの出版物があるので、ここではただ手元にある本を、幾つか例として挙げる、呉方文・斉吉祥図『中国文化史図鑑』(山西教育出版社 1992年)。楊義・中井政喜・張中良等篇『中国新文学図志』(人民文学出版社 1997年)。陳平原・夏曉虹主編『触摸歴史:五四人物与現代中国』(広州出版社 1999年)

2・例えば康無為(Havold Kohn)『画中有話:点石斎画報与大衆文化形成之前的歴史(Drawing Conclusions:Illustration and the Pre-history of mass culture)』(『読史偶得:学術演講三篇』(台北 中央研究院近代史研究所 1993年)所収)。武田雅哉『清朝絵師呉友如の事件』(作品社 東京 1998年)。陳平原『晩清人眼中的西学東漸』(貴州教育出版社 2000年)は、「導言」(1-76頁)としてその編纂した『点石斎画報選』を掲載する。

3・巫鴻(Wu Hung)『武梁祀:古代中国図像芸術的意識形態(The Wu Liang Shrine: The Ideology of Early Chinese Pictorial Art)』(Stanford University Press 1989年)。?義田「武氏祀研究的一些問題」(『新史学』8巻4期 187-216頁 台北 1997年)を参照。

4・杜正勝「番社采風図題解ー以台湾歴史初期平埔族之社会文化為中心」(『景印解説番社采風図』(歴史語言研究所 台北 1998年)所載)。・素娟「文化符碼与歴史図像ー再看番社采風図」(『古今論衡』第二輯 歴史語言研究所 台湾 1999年)所収)を参照。

5・『通志・図譜略』(王樹民点校『通志二十略』下冊1825頁 中華書局 1995年 所収)。図像の意義や、古代人の見解については、ほかに明の周孔教『三才図会・序』の「君子は多識を貴び、一物の知らざる、漆園以て視肉撮嚢と為す。且つ儒者云わずや、致知は格物に在りと、図を按じて索むれば、上天下地、往古来今、列眉指掌の若からざるは靡し、是れ亦た格物の一端、益と為すの一なり。万物は洪鈞に鼓鋳し、形形色色、文字を以て揣摩す可からず、留侯は状貌は婦人好女の如きも、図を是れ披らくに匪ざれば、将に以て魁梧奇偉なる一大男子と為さん、蟹を食う者は儻し尽く書を信ずれば、直だ為に学を勧めて死すのみ、是れを図に得て之を存すれば、書を読みて半豹を俟つこと無くして、眼中具さに大見識あり、鴻乙誤つ無きは、益と為すの二なり。然れども鐘鼓以て爰居を餐せず、冠冕以て裸国に適せず、方今図は以て士に課さず、士亦安くんぞ図を為すを用いん。是れ亦た爰居の鐘鼓、裸国の冠冕なり。図の一窮と為す。筆精墨妙、吾が輩 千古の生涯と為すも、子雲且つ薄んじて小技と為す、矧んや図は丹青の事に渉り、即ち童稚の且に嬉戯として之を視んとす、孰れが肯えて尊信すること古人の所謂左図右史の如きぞ、是れ図を二窮と為す」(『三才図会』巻首 2-3頁 上海古籍出版社影印本 1988)が参考になる。

6・もし極端に言えば、以下に列挙したそれら図像が関連している思想史の問題は、あるいはそれぞれ古代中国の宇宙空間の観念・民族主義的伝統及び異なった思惟方法と関わるかもしれない。

7・カロリヌ・ジス=ヴェルマンド撰、明神洋訳「明景泰五年在銘『水陸斎図』をめぐっる図像学的研究」(『仏教芸術』二一五号 119-120頁 東京 1994年)を参照。

8・『霊宝領教済度金書』巻一(『道蔵』影印本 第七冊 28頁)。より早い道教の造像についての文献は、伝陸修静撰『洞玄霊宝三洞法道科戒営始』巻二「造像品」(『道蔵』影印本 第24冊 747頁 文物出版社 上海書店 天津古籍出版社 1988年)を参照。

9・Huang Shih-shan《Summoning the Gods from Heaven,Earth and Water:Paintings of the “Three Officials of Heaven, Earth and Water” in the Boston Museum of Fine Arts and their Association with Daoist Ritual Performance in the 12th Century》。これは作者が“宗教と中国社会”国際学術討論会(香港 2000年)に提出した論文である。また、異なった神像配置のなかから思想信仰を探求したものとして、彭明輝「由神明配置図看台湾民間信仰」(『新史学』六巻四期 台北 1995年)が参考になる。さらに李豊楙・謝宗栄は「道教文化与文物図像」(『道教文物』11-12頁 歴史博物館 台北 1999年)において、道教文物の理解について既に次のように指摘している、必ずその元々の様子の筋道を模したのが儀式であり、道教儀式のなかでの表現とは宇宙の図式の現前で、「それは自然界秩序に対する一種の模擬」である。

10・『楚辞補注』巻三(85頁 中華書局 1983年)

11・『朱子語類』巻一三八(3278頁 中華書局 1988年)

12・丁晏『楚辞天問箋』に「壁の画有るは、漢の世猶お然り。漢の魯殿石壁及び文翁礼殿図、皆な先賢の画像有り、武梁祀堂に伏羲の夏桀諸人を祝誦するの像有り、『漢書成帝紀』に甲観画堂に九子母を画くと。『霍光伝』に周公 成王を負うの図有りと、『叙伝』に紂酔いて妲己に踞るの図有りと。『後漢書宋宏伝』に屏風に烈女図を画く有りと、『王景伝』に『山海経禹貢図』有り」とある。『天問纂義』(7-8頁 中華書局 1982年)より再引。

13・たとえ現在の文中に文字の欠略が有ったとしても、しかし私はこれはきっと初期道教の祭祀の時の図像についての記載だと思う、初期道教も対称を作る空間感覚に大変注意しており、まさにそうであるからこれらの絵はただ「みな天法を像し、人事に随うこと無」きだけでなく、さらに神衣が「五行の色に随い」・六重が「六方の彩雑を象どる」と言明するのである。(王明『太平経合校』巻一0二『神人自序出書図服色訣第一百六十五』460頁 中華書局 1960・1997年)

14・しかし、明らかにこの三図には問題がある、例えばこのうちの西壁図の引き裂き格闘するさまは、道教の神仙画ではなく『水滸伝』の挿し絵のようであるし、東壁図の宮殿建築物は、初期絵画の風格ではなく後世の界画〔訳者注・定規を用いて精密に建物を描いた絵画〕の技法のようである。あきらかに、これらは初期道教図像を直接的に引き継いだものではなく、逆に後世の道教絵画たとえば宋代の巻軸画『武宗元朝元仙杖図』『佚名八十七神仙巻』・元代?城永楽宮壁画の『諸神朝三清』等々を踏襲した以降の後の想像である。

15・吉川忠夫「静室考」(『日本学者研究中国史論著選訳』第七巻 446-477頁 許洋主訳 中華書局 1993年)は、早期道教の「静室」(或いは靖室)は非常に素朴であった、ただ名山大沢無人の野に設けられるだけでなく、さらにただ香炉・香灯・章案・書刀だけがあって、修行者の静座自省や神との交接に供された、と指摘する。

16・『雲笈七簽』巻四十五(斉魯書社影印本 257頁 1988年)

17・『要修科儀戒律鈔』巻十七(『道蔵』影印本 第6冊1006頁)。またこの文は『雲笈七簽』巻三十七(209頁)にも載る。また、『雲笈七簽』巻二十五の「北極七元紫庭秘訣」に必要とされる物品を説明するなかに「七元図」があり「図は青絹を用い二幅長さ九尺に之を画く」(147頁)とある。現代の学者の調査によると、福建・浙江南部一帯の道教儀式において、また同じように各種の図像を掛けられる、福建南部の靖金山郷の霊応壇は『十王図』を掛けられ、大田道士が?を行う時に三清及び天府地府の図を掛ける、浙江の蒼南道士の壇場では、東には日宮を表し・馬元帥・温元帥を掛け、西には月宮・潮元帥・康元帥の図像が掛けられる。労格文(John Lagerwey)『福建省南部現存道教初探』及び労格文・呂錘寛「浙江省蒼南地区的道教文化」(『東方宗教研究』第三期 芸術学院伝統月術センター 台北 1993年)を参照。

18・山西文物管理工作委員会『永楽宮』(人民美術出版社 1964年)、傅熹年「永楽宮壁画」(『文物参考資料』1957年3期 30頁 北京)を参照。この種の道教儀式における図像・音楽・文字と宗教心理の関係については、なお総合的な研究が求められる。例えば道教の各種の『朝元図』を、類似する唐代陳陶の「朝元引」といった文献・道教の?儀の壇場・動作や手順についての規定及び斎?音楽を総合させれば、その宗教的意味についての理解がさらに明確になるかもしれない。

19・例えば道教の大規模な斎儀の斎壇の方位・各層の高さ・安纂の枚数・柱の色彩・門の彫刻・門上の額の文字の筆写及び地色、明かりの置き場所は、みな宇宙天地四方星宿とかなり精密正確に対応している。『霊宝領教済度金書』巻一「壇幕制度品」(『道蔵』影印本 第7冊 20-21頁)を見よ。

20・このような空間観念の影響が相当深いことは、小説でさえ例外ではなく、早期の道教の「十洲三島」についての伝説と想像は、このような空間配置によって分配されている。『雲笈七簽』巻二十六 155頁以下を参照。後の小説例えば清の呂熊『女仙外史』が第一回で「天上のそれぞれに境界がある」ことを述べるとき、「東天は道祖三清及び群仙の居るところ、西天は如来仏祖及び諸菩薩阿羅漢の止まるところ、北天は玄武大帝及び衆神将が治め、昊天は上帝の宮闕、則ち中央に在りて南天を統轄す」ると分けられている。

21・類似の図像について、饒宗頤「呉県玄妙観石礎画迹」(『歴史語言研究所集刊』45本2分 265-283頁 台湾 1974年)に論がある。

22・この空間構造と様式の思想史上における重要な意義については、葛兆光『七至十九世紀中国的知識思想与信仰ー中国思想史代二巻』(復旦大学出版社 上海 2001年)を参照。

23・明代の鄭若曾の『図式弁』の以下の話は大変興味深い、「図画家の有るは原と二種有り、海を上に地を下とする者有り、地を上に海を下とする者有り、其の是非弁ずる莫し、若曾義を以て之を断ずるに、中国は内に在りて、近なり、四裔は外に在りて、遠なり。古今の画法は皆な遠景を以て上と為し、近景を下と為し、外境を上と為し、内境を下と為す、内を上に外を下とすは、万古不易の大分なり、必ず当に我が身を以て中国に立て夫の外裔を経略すべきは、則ち可なり、若し海を下に置けば、則ち先ず海中に立ち、自ら外裔に列するなり、中国を倒視するは、可ならんか」(『鄭開陽雑著』巻八(影印『文淵閣四庫全書』本 八頁A-B))。

24・列文森(Joseph R. Levenson)『儒教中国及其現代命運(Confucian China and its Modern  Fate)』は「近代中国思想史の大部分の時期は、「天下」を「国家」とさせる過程であった」と指摘する(鄭大華中訳本 87頁 中国社会科学出版社 2000年)

25・「天下・中国与四夷ー古代中国世界地図中的思想史」(『学術集林』第十六巻 上海遠東出版社 1999年)。最近、Walter D. Mignoloが著した『The Darker Side of the Renaissance:Literacy,Territoriality,and Colonization』(Michigan University press 1995)の第五章にも、似た研究が見える。

26・『徳隅斎画品』は梁元帝の『番客入朝図』(恐らくは『職貢図』)の語を記している。陳伝席編『六朝画家史料』(285頁 文物出版社 1990年)より再引。

27・『職貢図』に関しては、榎一雄の論文「職貢図の起源」(『東方学会創立四十周年東方学論集』東京 1987年)が参考になる。台北の故宮に現存する梁元帝蕭繹『職貢図』は南唐の顧徳謙の模本である。南唐以前の、異域異族についての図像で現在でも見ることができるのは、例えば敦煌158窟の中唐に描かれた『涅槃経変・各国王子挙哀』などが、また参考となる。

28・劉克荘『後村先生大全集』巻一0二「跋林竹渓書画・李伯時画十国図」。陳高華編『宋遼金画家史料』(512頁 文物出版社 1984年)より再引。

29・図像が形や姿をこちらからあちらへ、ある人の視覚感覚を別の人のそこに、正確に伝えることができるだろうか。たぶんできるよう思える、現代の撮影技術に伝送技術をもってすれば、寸分違わなくできそうだし、テレビに現れる情景はいつも人に真実の感覚を与え、新聞雑誌でニュースに添えて掲載された写真も常に証拠としての作用をもち、「目で見たものは確実だ」としていつも人を安心させ、もはや疑いを生じさせない。かりに絵画に頼る時代であったとしてもこのようであった、たとえば、艾儒略が福建で天主教の書物を刻したが、そのなかにあった図像は、ヨーロッパで出版された宗教書から翻刻したもので、『聖母端冕居諸神之上』という絵は、1596年ベルギーのアントワープ(Antwerp)で出版された『Adnotationes et Meditationes in Evangelia』から翻刻され、西洋の文字を漢文に変え、もとは分かれていた図と文を合わせた以外は、大体はもともとのものだし、一方1785年フランスパリ(Paris,Moutard)で出版された中国に関する本、すなわちGrosier Jean-Baptisteの『Atlas general de la Chine』であるが、中国の『天工開物』のなかの織機などの図をそのまま翻刻印刷したもので、だいたいのところ狂いはない。

30・基歇爾(Athanasii Kircheri、英文ではAthanasius Kircherと表記される)の『中国図説(China Monumentis)』(Amstelodami 1667):Charles Van Tuylの英訳本『China Illustrata with Sacred and Secular Monuments,Various Spectacles of Nature and art and Other Memorabilia』(pp.103 Indiana 1987)。

31・Friedrich Perzynski『Von Chinas Gotten,Reisen in China』(Tafel.17,Kurt Wollf Verlag,Munchen and Leipzig,1920)

32・Joan Nieuhof『Tartarischem Cham,Keizer van China』(1665)の巻首を見よ。この本はベルギーのルーバン大学神学院図書館に現存する。

33・これは1671年Amsterdamで出版されたある書物の挿し絵である。『Illha Formosa-Het Schone Eiland』(51頁)を見よ。このような想像は別の明清鼎革に関わる本にも存在する。『Reghi Sinensis』(Amsteladami 1665)の巻首に、図の中の一騎の馬上にいるのは清の武将で、右手は刀を振るい、左手は人の首を下げているのが、見える。

34・類書である『三才図会』(817-872頁 上海古籍出版社影印本 1988年)にある、「人物」の十二から十四巻の各種の異域の人物像と説明文を参照。 

35・当然、決してただ「変形」のなかにだけ思想の痕跡があるのではなく、「不変」のなかにも思想の印があるかもしれない。例えば明代の中国の画家は聖母像をその通り借用して観音菩薩を描いたし、或いは泉州の中国人のキリスト教徒と長崎の日本人のキリスト教徒は観音菩薩像をかりて聖母として崇拝したのは、ただ図像が一種の崇拝物としての意味があり、決して具体的な模擬の対象であったのではないということを証明するだけでなくなく、さらにある図像の借用から初期の東西文化交流のなかの経てきた好奇・模擬・迫害と隠忍の歴史を見ることができるように思われる。

36・Nicolas Standaert『A Chinese Translation of Ambroise Pare's Anatomy』(『中国文化交流史雑誌(中国天主教史研究)』(Sino-Western Cultural Relations Journal XXI,1999)P9-33.)。

37・シカゴ自然歴史博物館所蔵の伝唐寅作『送子観音図』と西方の聖母像との関連は、Lauren Arnoldの『Princely Gifts and Papal Treasures--The Franciscom Mission to China and Its Influence:1250-1350』(Desiderata Press,San Francisco,1999)を参照。また、ある説によると十六世紀の明末期、泉州でかつて聖母の代わりとして観音像を作り、ちょうどカトリックを排除していた日本に輸出され、日本人の信徒によって用いられ「その聖母に対する崇拝を隠」したという。(石泰安(R.A.Stein)「観音、従男神変女神一例」耿升訳『法国漢学』第二輯 87頁 清華大学出版社 1997年)。現在も長崎大浦天主堂にはマリア観音像がある。『東夷図像』中の「天竺図」の朝拝聖母の図像については、湯開建「中国現存最早的欧洲人形象資料」(『故宮博物院院刊』2001年第1期 22-28頁)に紹介がある。

38・「洞玄霊宝五岳古本真形図」(『道蔵』影印本第六冊 735-743頁)。類似のものはほかに「玄覧人鳥山経図」(『道蔵』影印本第六冊 697頁)がある。この問題については、労格文「中国的文字和神体」(施康強訳 『法国漢学』第二輯 清華大学出版社 1997年)に言及があるが、残念ながらほんの少し触れているだけである。